旧制七高生と8月9日の長崎 

代表 平井 一臣
代表 平井 一臣

日本の敗戦から78年目の夏、8月9日に私は長崎にいた。目的は、長崎市内の白鳥公園で行われる予定の、ある催しに参加するためであった。残念ながら、台風の直撃により、会場に行けなかったし、おそらく催しも行われなかっただろう。

私が参加しようとした催しは、旧制第七高等学校造士館の学生たちの慰霊祭である。旧制七高は、現在の鹿児島大学の前身の一つであり、ナンバースクールとして多くの優位な人材を輩出した。その旧制七高生の原爆による犠牲者の慰霊碑が、白鳥公園という何の変哲もない公園の片隅に建てられている。慰霊碑に刻まれている「君な忘れそ楠蔭の 南の國の起き臥しを」は七高寮歌「樟の葉末」の一節であり、別れの際に歌われたという。

鹿児島から遠く離れた長崎の地で七高生たちがなぜ犠牲になったのか。それは、戦時中の勤労動員による。約100人の七高生たちが、三菱重工の工場で働き、西郷寮で起居を共にした。西郷寮は爆心地から約1.5キロの所にあった。100人のうち14人が8月9日の原爆投下により命を落としたのである。

この催しを知ったのは、東京で開かれた鹿児島大学の同窓会の集まりだった。当時学部長をしていた私は、その会場で旧制七高の卒業生である谷口治正さんという方からお話をお聞きした。また、私の大学時代の恩師のご尊父が旧制七高の卒業生であり、恩師自身がこの催しに参加されているということも、ちょうど同じ頃に知った。そうしたことから、2015年と16年の2回、この慰霊祭に参列させていただいた。集まった方々のなかには、旧制七高の卒業生だけでなく、長崎重工で一緒に働いていた女学生の方々や、七高生の救援に当たった方々などもおられ、慰霊祭終了後の懇親会で、当時の貴重な話を聞くこともできた。

その後、私自身のスケジュール調整がつかず、なかなか参加できないまま時が過ぎ、ようやく行けるかなと思ったら、今度はコロナ禍が始まり足が遠のいてしまった。昨年、久しぶりに8月9日の長崎を訪ねることができたのだが、慰霊祭の時間を間違えてしまった(以前は、11時2分に合わせた長崎市の式典とはずらして、夕方に行われていたのであるが、現在は11時2分に合わせて慰霊祭を行っているということを後で知った)。

これまで担い続けてこられた七高関係者はさらに高齢化し、以前のような慰霊祭を行うのは厳しくなっており、昨年はご子息の方を中心に小規模な集まりが行われたという。なので、今年が最後になるかもしれない。そういう思いもあり、台風での中止にがっくりとしてしまった。しかし、歴史の火をともし続けられるかどうか、本当に試されているのは今なのだと改めて思った。来年の8月9日、とにかく慰霊碑の前に行ってみようと思う。