声があがる社会、声をだせる社会へ

代表 平井 一臣
代表 平井 一臣

 

3月11日、久しぶりにデモに参加した。この日行なわれた「ストップ川内原発!3.11かごしまパレード」である。

東本願寺前から出発、いずろの交差点を左折し、天文館を抜けて高見橋のたもとまで。デモの先頭で横断幕を持ち、時々隣のお坊さんとの会話も楽しみつつ歩いた。青空の下でシュプレヒコールをあげながら、あっという間に時間が過ぎていった。

この集会でも「パレード」という言葉が使われたように、現在の日本では「デモ」という言葉は敬遠され気味である。しかし、ここではあえて「デモ」という言葉を使いたい。というのも、人びとが公の場で自らの意思を自由に表現する「デモ」を忌避する雰囲気が非常に強くなっており、そのことは、日本社会の危機を示していると思われるからである。

大学の講義で学生たちにデモについて尋ねてみたことがある。そうすると、圧倒的多数は、そもそもデモを見たことがない、と答えた。また、デモについての感想や意見を聞いてみると、「なんだか怖い気がする」「選挙があるのだから必要ないのでは」、なかには「非合法活動はいけないと思う」といった意見まで出てくる。デモは、私たち市民が行なうことができる正当な意思表示の権利であるということを知らない学生も少なくないのだ。

4月22日付『朝日新聞』のある記事に目がとまった。袴田巌さんの再審開始決定について、台湾出身の研究者・李怡修さんという方のインタビュー記事である。日本の再審制度の改革の遅れについて、台湾の状況と比較した内容だ。私が注目したのは記事の最後の部分。李さんは、台湾で法律に関する様々な改革が進んだ背景について次のように述べている。

「刑事訴訟法だけではありません。2000年代に軍隊のいじめで死者が出たとき、加害者である上司は軍事審判法という特別な法律で守られ、公開の法廷で裁かれませんでした。数万人の市民がデモをし、法律は事実上廃止されました。

民主主義の国では、国民が声を上げなければ何も変わりません。私は日本でデモが少ないのが不思議です。」

李さんが言うように、日本社会にも様々な問題が渦巻いているにもかかわらず、人びとがデモを通して声を上げることは非常に少ない。私たちは、民主主義の担い手として市民が伸びやかに声を上げデモ行進を行う社会、言い換えれば、声があがる社会、声をだせる社会を作っていく必要があるのではないのだろうか。